スポンサーリンク

お賽銭キャッシュレス問題

改札機にピッとタッチするだけで便利なICカード。ネットショッピングの際にはクレジットカードで購入できたり、コンビニでもスマホでシャリ〜ンと支払い完了するなど、お財布も現金も持ち歩かなくて済む便利な世の中になりましたよね。

そんなキャッシュレスの流れもついにこんな業界にまで…!と驚くような記事を先日、毎日新聞(電子版)で見つけました。

徳島県阿南市の平等寺は昨年12月、さい銭のスマートフォン決済を2020年末までの実証実験として始めた。寺の専用タブレット端末に金額を入力し、参拝者のスマホアプリのQRコードを読み込んで精算する。同寺は「QRコード決済が普及しておらず、使う人はまだ少ない。キャッシュレスの決済方法が乱立しており、様子見の段階だ」と話す。東京都港区の愛宕神社は14年から年始限定で、さい銭箱の横に電子マネーなどで決済できる「キャッシュレスさい銭箱」を設置。高野山真言宗の総本山で世界遺産の金剛峯寺(和歌山県高野町)は17年4月、拝観料やお守りなどの代金のクレジット決済を導入した。18年から会計システムの見直しに伴う改良中だが、担当者は「信者の参拝時間が少しでも増えるなど利便性を高めるメリットがある」と話す。【中津川甫】

つまり、キャッシュレスでお賽銭を納めることができるという訳なのですが、このシステム、皆さんはどう感じられるでしょうか?

  • 参拝の際に小銭がなくて困ったことがあるので助かる
  • 普段現金を持ち歩かないから便利
  • 神聖な場に機械を導入するのは罰当たり
  • 簡単になったらご利益なさそう

色々な意見があると思いますが、私自身は、「こんなのお賽銭の意味がなーい!」と思うのです。

お賽銭の意味とは?

神社やお寺を参拝したときに奉納するお賽銭。そもそもお賽銭って、どんな意味があるのでしょうか?願い事を叶えてもらうための代金?神社仏閣の運営費用?それならキャッシュレスでも、別に問題はないよね?

…いえいえ。実はお賽銭は現金でないといけない理由が、ちゃんとあるんです。

古代中国では昔、お金の代わりとして貝殻が用いられていました。財・貨・買・貯など、お金に関する漢字に貝が使われることが多いのは、そのためなんです。そして、その形状が命が生まれ出る場所に似ていることから、お金は“あの世とこの世をつなぐ出入口”と考えられていました。

その出入口から「災厄や病気などがあの世に吸い寄せられる」と考え、お金は“穢れ”を吸着してくれるものとして扱われるようになりました。そしてその“穢れ”がくっついたお金を神社やお寺の賽銭箱に奉納することで、“穢れ”を祓って浄化できると信じられていたのです。

…そう。お賽銭はね、穢れの浄化装置なんですよ!だからキャッシュレスにされちゃうと、穢れを祓えないじゃないですか!便利かもしれませんが、お金だけ払って穢れは自分の身体にくっついたまんまなんですよ。それに、そんな穢れた身体を晒したまま神様に願い事をするなんて、冒瀆以外の何者でもないわ!…と、私は思うわけです。

それでもキャッシュレスを望む声があるなら、神社やお寺がそういうシステムを導入していくことに反対ではありませんが、私自身はこれからもニコニコ現金払いで行こうと思います。

本来のお賽銭とは?

さて、お賽銭が穢れの浄化装置であるというお話をしてきましたが、もちろん諸説あります。ひとつの説として浄化装置を信じるも信じないもあなた次第…というわけで、もうひとつ、参拝の際に心得ておきたい説をお話をしようと思います。

お賽銭の始まりはお金ではありませんでした。かつては自然の恵みを与えてくださった神様に対する感謝として、白い紙に包んだ白米(“おひねり”と呼ばれる)を奉納していました。海の幸・山の幸なども一緒に納められることもありました。

何を言いたいのかもうお分かりかも知れませんが、重要なのは「祈願成就のお礼として」神仏に供物(=お賽銭)を捧げているという点。

そう。前払いではなく、後払い

結局、願いは自分で叶えるものなのです。頑張って頑張って願いを叶えて、叶ったら神社にお礼に行く。成功にはも必要だから、うまく事が運んだならそこには人外な力も働いていたのだろう、ということでお礼には行く(私は、願いを叶えてきた時ってびっくりするくらい運が良かったので、きっと神様の力だろうと思っています)。

でも、努力ではなんともできない「不運」が続くのであれば、お祓いの意味で事前に神社に行って、穢れを落としてくればいい。で、その時はお願い事をするのではなく「○○を成功させます」とか「○○の大学に合格します」とか、決意表明にしておくと良いです。

自力で頑張る。頑張っていると、神様が見ていてご褒美をくれるかも知れない。でも神様は気まぐれだから、頑張った分に比例してご褒美をくれるわけではない。そんな風に思っていると、信じるものがないよりは少し、頑張れる気がします。